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施設長のひとこと

2024年09月12日

 

悲しいでしょう。

 

 

何も差し上げられませんがぬくもりだけは差し上げられます。

私のベッドでお待ちしています

 

コロナが流行し始めた頃の話である。竜間之郷の職員が、利用者の部屋でこんな手紙を拾った。

 

一筆箋に美しい文字で書かれていた。女性が男性に宛てた手紙だ。

施設の中で探偵ごっこが始まった。これを書いたのは誰? 相手は?

 

手紙が落ちていたのは男性用の4人部屋であった。その中の一人の男性がこの手紙を受け取った男性であろうと職員が推理した。いつも静かにデイルームの片隅でテレビを見ている、ロマンスグレーの男性の可能性が高かった。

 

この方は身寄りはいるのだが、ほとんど面会には来ない。というか、コロナウイルスのため、施設は面会謝絶の時期もあった。最近ようやく面会基準が緩和されたのだが、それでも家族が来たのを見たことがない。認知症と診断されているが、とても穏やかな方だ。自分から女性に言い寄ったりすることはないタイプである。ここでは太郎さんとしておこう。

 

老人保健施設は、在宅への復帰を目指すの介護施設である。しかし、太郎さんは家族の事情で帰る場所がない。

 

職員たちの観察の目は鋭い。すぐに書いた女性は特定された。花子さんとしておこう。

小柄ではあるが、はっきりとものを言う女性である。花子さんには認知症らしいということ、脚が弱く歩行器でゆっくり移動している以外は、問題はほとんどない。だから、家族の受け入れがあればいつでも帰れる方だ。

 

花子さんは、私と顔を合わせると「先生、いつになったら家に帰れるんですか?」といつも聞いてきた。私は「いつでもいいよ、ご家族さんと相談してね」と返事していた。そして時々家に帰っては、しばらくして家族の事情でまた施設に戻ってきていた。手紙が発見されたのは、花子さんが最近、施設に戻ってきて間もなくのことだった。

 

きっと、花子さんが太郎さんにこの手紙を手渡したんだろう。けれども、太郎さんは手紙の意味を測りきれず、しばらく持っていたが、いつしか手紙を落としてしまった、と推定された。実際にベッドまでいったかどうかも分からない。

 

花子さんは戻ってきてから、「先生、いつになったら家にかえれますか?」と聞いてこなくなった。今までと違って何かしら落ち着いているのである。

私は施設でやっている認知症リハビリテーションの効果と考えた。厚生労働省が定めている120分ずつ週3回のプログラムである。

 

ところがこの手紙を見てから、私の考えは一変した。これは恋の効果だったのだ。

 

高齢者施設に入る時、ほとんど皆一人である。ということは、恋愛だっておきるだろう。

よくあるのは、寄り添って介護やリハビリをしてくれる施設の職員に対する恋ごころである。そういう気持ちを持つと、リハビリを頑張る気持ちになるのだろう。気に入った職員に、規則では禁止されているがちょっとしたプレゼントを渡す方も時々いるようである。リハビリテーションそのものの効果もあるが、リハビリをしたいと思う気持ちになることも大事である。

 

もう一度手紙を思い出してみた。

 

 

「悲しいでしょう」

 

 

このストレートな表現には、家族に会えないこと、コロナウイルスもあり面会も制限されていること、そしてさらには、自分の心身が思うようにはならないこと。すべてを含んでいる。太郎さんのことだけでなく、自分も当事者だからなおさらだ。

 

「ぬくもりだけは差し上げられます」

これは性愛とは限らない。むしろ母性に近いのかもしれない。

 

そんな言葉遣いができる花子さんに尊敬の念すら覚えた。

 

ある時デイルームを除くと太郎さんと花子さんは同じソファーに、二人は密着するわけでもなく、自然に並んで座っていた。別な時には、花子さんは他の女性の間に仲良さそうに座って歓談していた。

 

花子さんの認知症の診断はなんだったのだろう。なんらかの理由で家に居づらくなり、ボケたフリをしていただけなのかもしれない。あるいは実際に認知症になりかけていたのかもしれない。でも施設で自分の好みの男性に会うことが転機になって、変わったのは確かである。


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